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ベルベデーレ宮殿の下宮の横を通り、宮殿の東側の門から外に出ると、目の前をウィーン市電71番線が通っています。それに乗って、南の方向にあるウィーン中央墓地に向かいました。
この市電も、ウィーンにきてすぐ買ったウィーンカードで乗車できます。ウィーンの市電の車両は、東京・世田谷で私の家の近くを走っている東急世田谷線の車両と同じくらいの大きさです。ウィーンの電車は、どれもこぎれいで落書きなどもなく、私ども旅行者もいつも安心して乗ることができました。 |
ベルベデーレ宮殿の外で乗ってから、15分ほどでウィーン中央墓地の第二門というところに着きました。私どもが中央墓地にきたのは大音楽家の墓を訪ねるためですが、大音楽家の墓は中央墓地32Aという区画に集められており、その区画の最寄り停留所がここだということでした。
その第二門という停留所で市電を降りると、目の前に花屋さんが軒を並べていました。花が好きなウィーン市民が墓参りの花をここで買うのでしょうが、観光客の中にも大音楽家の墓に花をささげる方が多いのでしょう。 |
第二門を入ると、下左のように広いプラタナスの並木道がまっすぐ伸びており、そのずっと奥に教会と思われる建物が見えました。並木の木々は、もうすでに秋色が濃く、かなり黄葉が進んでいました。昔の名画 『第三の男』のラストシーンが、この中央墓地の並木道だったのを思い出しました。
その並木道を通って、お目あての32Aという墓所区画に向かいます。その途中の区画の中には、下右の写真のように、区画の並木道に面したところに塀と門がついているところがいくつかありました。 |
とうとう、区画32Aにある大作曲家たちの墓所の前に出ました。これまで何度もテレビで見たとおり、中央にモーツァルトの記念碑があり、その左側にベートーベンの墓、右側にシューベルトの墓がありました。モーツァルトの遺骨は発見されていないので、ここにはモーツァルトの墓ではなく記念碑が置かれています。
巨木の茂る墓所の中で、大作曲家たちの墓は小さな広場の傍らに静かにたたずんでいました。どの墓の前にも、世界中の音楽愛好者がささげた花がたくさん置かれてありました。 |

モーツァルトの記念碑(下左)は、下部にモーツァルトの肖像が埋め込まれており、その上にミューズの女神でしょうか竪琴をもった女性が座って楽譜を見ている銅像が置かれています。女性の傍らには、モーツァルトが作曲した楽譜がうず高く積まれており、この大天才の信じられないほどの業績を示しています。
その左側に立つベートーベンの墓(下右)は、メトロノームの形をしており、金色の竪琴の飾りがつけられていました。その金色の竪琴の上には小さな金色の蝶の飾りがありましたが、これはなんでしょうか。 |
モーツァルトの記念碑の右側には、特に歌曲の分野で不朽の業績を残したシューベルトの墓がありました(下左)。シューベルトは、死後他の墓地に葬られていましたが、やがて生前の希望通り、中央墓地の敬慕してやまないベートーベンの墓の近くに改葬されました。
中央墓地のシューベルトの墓の右側には、ブラームスの墓があります(下右)。シンフォニー、ピアノ協奏曲、バイオリン協奏曲などの分野で偉大な業績をあげた作曲家です。ブラームスも終生ベートーベンを尊敬したので、シューベルト同様ベートーベンの墓の近くに葬られて喜んでいることでしょう。 |
俳人与謝蕪村は、生前から、敬慕する松尾芭蕉の墓の隣に葬られるのを熱望し
我も死して
碑に辺(ほとり)せむ
枯れ尾花 与謝蕪村
という俳句を詠みました。そして、死後、その希望通りに京都金福寺の芭蕉塚の横の墓に入りました。シューベルト、ブラームスのお二方も、蕪村と同じく、希望通りに敬慕する大先輩の近くの墓に入ったことになります。 |
やはりモーツァルト記念碑の右側には、「ワルツ王」と呼ばれたヨハン・シュトラウス2世の墓(下右)とその父ヨハン・シュトラウス1世の墓(下左)があります。ヨハン・シュトラウス2世は、いうまでもなく、オーストリアの第二の国歌といわれるワルツ「美しく青きドナウ」や喜歌劇「こうもり男爵」などを作曲した人です。
父ヨハン・シュトラウス1世も優れたワルツやポルカを多数作曲しており、ニューイヤーズコンサートでもよく演奏されます。その墓は、ご覧のように黒い三角形の変わったものでした。 |
ベートーベンの墓の裏のところに、フーゴー・ヴォルフの墓がありました(下左)。19世紀末に、優れた歌曲を多数作曲した音楽家です。三十代の終わりには精神に異常をきたし、その後42歳で亡くなりました。
「モーツァルト党」などの曲で有名なワルツ、ポルカの作曲家ランナーの墓が、シュトラウス父の墓の隣にありました(下右)。ランナーは、オーストリアでは現在も大変人気がある作曲家で、その作品はニューイヤーズコンサートでもよく演奏されます。 |