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  (1) 奥の細道・松島

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 芭蕉はかねてより「奥の細道」の大旅行をしようと考えていましたが、元禄に入ってからいよいよその決意を固め、芭蕉庵を引き払うなど旅行の準備を開始しました。
そのころ芭蕉は、次の俳句を詠んでいます。

誰まつしま
「まつしま」の俳句

  朝夜さを(あさよさを)
      誰まつしまぞ
          片心  松尾芭蕉
朝も夜も、松島への思いが心に浮かんでならない。それは、私を待つ人が誰かその島にいて、私のことを思っているからであろうか、という意味です。
「まつしま」は、「待つ」と地名「松島」とを掛けています。

この俳句も、「奥の細道」の旅で、古来和歌にも詠まれている名勝松島を見たいという熱き思いを語ったものでしょう。

元禄2年(1689年)3月27日、芭蕉は弟子河合曾良を伴って奥の細道の旅に出立しました。新暦では5月16日にあたり、風薫る時期のことでした。

日光、黒羽、那須を経て、二人は白河の関に着きました。ここから先が、当時「奥」と呼ばれた奥州になります。
その後かつての北の要塞の地多賀城に至り、奈良時代に建立されたとされる「つぼの石ぶみ」という石碑を見て感激し、「行脚の一徳、存命の悦び、覊旅の勞をわすれて泪も落るばかり也」 と記しています。

ここまでくれば、松島の入口塩釜はすぐ近くです。元禄2年5月8日、芭蕉は塩釜に着き、翌5月9日の早朝にまずその地の高名な神社である鹽竈神社を参拝しました。
この神社は古くからの歌枕の地として有名ですが、それに加えて奥州藤原氏の一族で源義経とともに最期を遂げた泉三郎忠衡が「文治の燈篭」という鉄燈篭を寄進したのでも知られています。源義経を敬慕していた芭蕉は、ぜひこの燈篭を見たかったのでしょう。

松島湾
松島湾とその近傍

 その日のお昼ごろ、芭蕉は長年の念願である松島めぐりの舟に乗りました。

左の地図にあるように、塩釜は松島湾の南西の端に位置しています。芭蕉の乗った小舟は、塩釜を出てからまず東に向かい、その後島々を見ながら北上したと考えられます。

奥の細道には「其間二里餘、雄嶋の磯につく」とあるので、最後は現在の仙石線松島海岸駅の南にある雄島に上陸したようです。

現在は、左の地図にあるように塩釜・松島間にさまざまな遊覧船のコースが運航されています。

私どもは、芭蕉とは逆のコースをとって、まず平泉に行き、その後松島海岸駅の近くから乗船して塩釜に行きました。その際に、遊覧船は、芭蕉の松島めぐりに近いとされるコースのものを選びました。ここは、芭蕉に敬意を表して、塩釜からそのコースの遊覧船に乗ったとして松島観光を楽しみましょう。

塩竈
塩竈から乗船

 塩釜港から出港し、しばらくしてから振り返ると、港の赤灯台が目に入りました。
現在は、塩釜港は日本有数の遠洋・沖合漁業の基地で、周辺では養殖業も盛んだそうです。また漁業生産物の流通のセンターでもあり、港の周りには大きな水産加工工場や倉庫が立ち並んでいます。

芭蕉の生きた江戸時代には、塩竈港は、伊達藩の貿易港として、また鮮魚供給基地として大いに栄えていました。

松島めぐり
 仙台平野には松島丘陵が東西方向に伸びていますが、その東の端が沈下して松島湾に入り、大小260あまりの島々が生まれました。

松島丘陵は主たる部分がややもろい凝灰岩、砂岩でできているので、松島の島々は波打ち際から徐々に侵食され、さまざまな面白い景観が形成されました。波に侵食された部分は凝灰岩、砂岩の灰白色になっており、その上に松林が生い茂った島が多く、船が進むにつれ変化に富んだ景色が次から次と現れます。

下左の写真は塩竃から東の方に離れたところにある「夫婦(めおと)島」という島で、大小二つの島が寄り添うように並んでいます。それらの間にある小さな岩が、幼い子供のようです。
下右の写真は、夫婦島よりさらに東によったところにある「仁王島」という岩島で、柔らかい部分が侵食されて人の顔のようになっています。

めおと島 仁王島

下の写真は、名前はわかりませんが、やはり塩竃の東にあった島です。島の形とその上にある松林がうまくマッチしていて、まさに一幅の絵をみるようです。

松島

下の写真は、上記の島よりやや西の方向に戻ってから北上したところにある鐘島という島です。島の断崖には波浪により4つの穴が穿かれており、そこに打ち寄せる波が鐘を打つような音をたてることからこの名前がつけられました。

鐘島

下の写真は、上記の鐘島よりさらに北上したところにある在城島という島です。昔、仙台藩主伊達政宗公がこの島で月見の宴を行ったことから、城の島という意味でこの名前がつけられたということです。

在城島

下の写真は、上記の在城島よりさらに北上したところにある伊勢島という島です。それほど大きな島ではありませんが、写真のようにバランスの取れた優美な姿で古来有名です。

伊勢島

遊覧船
遊覧船

 元禄2年(1689年)、芭蕉はこれらの島々をめぐった後、最後は現在の松島海岸駅に近い雄島に上陸しました。

前記のように、芭蕉が塩竃で乗船したのはその日の正午過ぎでした。その後、手漕ぎの小舟で島巡りをしたのですから、雄島に着いたのは夕方だったと思われます。

私どもは、今回は松島海岸から左の写真の小型遊覧船に乗って塩竃まで芭蕉とは逆のコースで松島めぐりを楽しみました。


奥の細道・松島の段
 奥の細道・松島の段では、芭蕉は次のように簡潔な記述でこの松島の景観を賞賛しています。
抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。
島々の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。
負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其気色、よう然として美人の顔を粧ふ。
ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽さむ。
最後に「いづれの人か筆をふるひ、詞を尽さむ」とありますが、その通り、芭蕉も奥の細道の中ではこれ以上松島について語ることはしませんでした。
奥の細道の他の段ではたいてい俳句を載せていますが、この段には俳句もありません。松島では、あまりの絶景に圧倒され、俳句を詠むことができなかったともいわれます。

奥の細道には収められていませんが、芭蕉は後に松島を題材にして次の俳句を詠んだということです。

    島々や
      千々に砕きて
        夏の海

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