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  (4) 軽井沢・旧三笠ホテル

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 新幹線軽井沢駅の北1.8kmほどのところに、このあたりでは有名な旧軽井沢交差点という場所があります。その旧軽井沢交差点から北北西約2kmのところに、「旧三笠ホテル」という歴史ある建物があります。昔は草津軽便鉄道の「三笠駅」というのがこのホテルのすぐ近くにあったということです。

三笠ホテルは、実業家山本直良によって明治38(1905)年にオープンされました。現在では三笠ホテルの建物は国の重要文化財に指定され、明治時代の軽井沢を現代に伝える貴重な文化遺産になっています。

旧三笠ホテル

私どもは、軽井沢北部にある水の名所「白糸の滝」を見てから、白糸ハイランドウェイという観光道路を走るバスで南に向かって旧三笠ホテルの前に着きました。上の写真は、バス道路側から撮影した旧三笠ホテルの全景です。

旧三笠ホテル入口
旧三笠ホテル入口

 建物は、黒褐色の壁に白い窓枠がアクセントになっているアメリカ風の造りです。
かなり大きな建物ですが、現存するのは当時の建物の半分ほどとのことで、最盛期の規模の大きさがしのばれます。

ホテルは、アメリカ帰りの設計技師の手により、欧米から輸入された建材や調度を用いて建設されました。
照明は、開業当初から白熱電球を使ったシャンデリアで行われていたということです。

入口の階段
 ホテル正面入口から入ると、目の前に二階に通ずる階段があります(下の写真)。この階段の造作も欧米から輸入したものかもしれません。ホテル内の方々で使われているカーペットは、イギリスから輸入したそうです。

ホテルは元は30室あり、客定員はわずか40人だったということです。前記のように元の建物は現在の倍ほどもあったのですから、規模の割にはこの定員は極めて少なく、非常にゆとりのある宿泊サービスを提供していたといえましょう。

入口の階段 入口の階段

ホテル内のホール
 開業当時の軽井沢は、外国人の別荘のほうが日本人の別荘より多かったそうです。東京から多数の外国人観光客がこの地を訪れ、このホテルに宿泊したのでしょう。

玄関の近くには、かなり広いロビーがあります。この部屋は椅子を入れ替えて小ホールとして音楽会や舞踏会にも利用されたとのことで、アップライト・ピアノが置かれてありました。ホテルには渋沢栄一、乃木希典、近衛文麿など政財界人、軍人、文化人が多く宿泊したことから、「軽井沢の鹿鳴館」とも呼ばれたそうです。

なお、コマーシャルソングなどでも有名だった指揮者・作曲家の山本直純さんは、山本直良氏の孫にあたります。

ホテル内のホール

ホテルの室内
 ホテルの室内には、ベッド、クローゼット、ライティングデスクなど現在のホテルと同様の設備が置かれていました。ベッドは木のフレームのものと金属フレームのものがありましたが、少なくとも金属フレームのものは欧米から輸入したと思われます。

各部屋には、当時の日本ではまだ少なかった水洗式トイレと洋式浴槽が設置されてありました。バスルームの壁はイギリスから輸入されたタイルが張られていました。

ホテルの室内

部屋の床は、この地に茂っていた赤松を製材した板で張られています。寒冷地のことで、各部屋には造付けのマントルピースが置かれ、近隣の森から集めたまきを燃やして暖をとりました。

ベッド 暖炉

ホテルの室内

創立者山本直良氏
 下左の写真は、ホテルの二階の部屋から下の庭を撮影したものです。ホテルの建築当時は、このあたりには大きな木があまりなかったので、赤松や落葉松を植えたそうです。その後100年余りの年月が経過し、現在ではこのようにうっそうとした森になりました。

当初ホテルは夏のみの営業で、ホテルの庭には当時日本では珍しかったプールが造られてあったということです。ホテルの宿泊客もホテル周辺の別荘の住人も外国人が多かったので、プールは軽井沢の短い夏を楽しむ外国人で賑わったことでしょう。

ホテルの庭 創立者山本直良氏

ホテルの中には、当時の様子を伝えるモノクロの写真が多数掲示してありました。それらの中にホテルの創立者山本直良氏の写真が何枚かありました(上右の写真)。山本直良氏は、日本郵船や明治製菓の重役をした実業家だったということです。

このホテルの経営は開業以来ずっと赤字が続いていたとのことです。大正14年に至って、ホテルは明治屋によって買収され、「株式会社三笠ホテル」という名称になりました。

宿泊した文学者たち

 ホテルの創立者山本直良氏の妻は、作家有島武郎の妹でした。山本氏自身も文学者や芸術家との交友が多かったので、このホテルには作家・文学者などが盛んに宿泊するようになりました。

有島武郎、志賀直哉など白樺派の作家たちが多く宿泊し、白樺派の軽井沢サロンとして利用されたということです。また、森鴎外、夏目漱石もときどき宿泊したそうです。

ホテルの中には、当時宿泊した作家・文学者などのモノクロ写真が掲示してありました。下に示すのはそれらの一部で、俳人・歌人正岡子規、詩人室生犀星、作家芥川龍之介、作家堀辰雄の写真です。

正岡子規

正岡子規
室生犀星

室生犀星

  
芥川龍之介

芥川龍之介
堀辰雄

堀辰雄

作家有島武郎の情死
 前記のように作家有島武郎は当ホテルと縁が深く頻繁に訪れましたが、自分の別荘浄月庵もこのホテルの近くにあり、夏はそこに滞在することが多かったそうです。

有島武郎の妻は早く亡くなりましたが、その後武郎は中央公論社の記者波多野秋子と親しくなりました。やがて秋子の夫の介入するところとなり、疲れ果てた武郎は、大正12(1923)年6月、45歳のとき秋子とともに上記別荘浄月庵で情死を遂げました。その後一ヶ月あまりしてようやく二人が縊死しているのが発見されたということです。

情死の少し前、武郎は次の短歌を詠んだそうです。

    世の常のわか恋ならは
      かくはかりおそましき火に
        身はや焼くへき     有島武郎

武郎には3人の子供が残されましたが、その長男が後に俳優森雅之になりました。

武郎は情死の数年前に 『惜しみなく愛は奪ふ』 という評論を書いています。この評論と情死事件とは関連が深いと受け取られ、世間で大いに騒がれたということです。

俳人三橋鷹女はこの事件当時24歳でしたが、やはり大きなショックを受けたことでしょう。鷹女が晩年になってから詠んだ有名な俳句

    鞦韆(しゅうせん)は
      漕ぐべし
        愛は奪うべし   三橋鷹女

は、武郎の 『惜しみなく愛は奪ふ』 を引用したものとされます。なお、鞦韆とはぶらんこのことで、俳句の世界では春の季語です。

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