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  (3) 義経と芭蕉

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 源義経は、実の兄源頼朝からの追討を避けて琵琶湖から敦賀に出て、日本海岸沿いに北に移動しました。義経が頼りにしたのは、少年期を過ごした奥州平泉の藤原氏でした。

途中、現在の石川県小松市にあった「安宅関」で義経が見破られ、弁慶が偽りの勧進帳を読んで危機を脱するという歌舞伎の「勧進帳」で有名なストーリーが残っています。

やっとのことで最上川の河口に達した義経一行は、平泉を目指して舟で最上川をさかのぼって行きました。4月ごろのことで、北方の大河最上川は雪解け水で増水しており、一行の川上りは苦労が多かったといわれます。

平泉・毛越寺
平泉・毛越寺

 ようやく平泉にたどり着いた義経一行を、藤原秀衡は暖かく迎えました。当時、奥州藤原氏は隆盛を極めており、京都の文化を導入して華麗な雅を楽しんでいました。

平泉にある古刹毛越寺(もうつうじ)には、左の写真の大泉が池という壮麗な庭池があり、藤原三代の人々がこの池に舟を浮かべて雅な遊びをしたといわれます。秀衡の庇護のもとにあった義経もそれに参加して、いっときの平安を楽しんだことでしょう。

 しかし、その平安は長くは続かず、やがて藤原秀衡が亡くなってしまいました。
かねてより東北平定を狙っていた源頼朝は、秀衡の死後まもなく、秀衡の後継者泰衡に義経の身柄を引き渡すように要求してきました。

高館の景観
高館の景観

 秀衡は、遺言で義経を守るように泰衡に命じたとされます。泰衡は苦悩しましたが、強大な勢力となっていた頼朝の命には逆らえず、やがて部下に命じて義経が暮らしていた平泉・衣川の館を急襲させました。

義経、武蔵坊弁慶をはじめ、主従は奮戦しましたが、衆寡敵せずやがて義経は自害し、他は全員討死しました。

左の写真は、高館(たかだち)の丘から平泉を流れる大河北上川を望んだものです。


「夏草や」の句碑
「夏草や」の句碑

 1689年、松尾芭蕉は長年の願望であった「奥の細道」の旅に出ました。義経が高館で自害してからちょうど500年後の1689年5月(旧暦)、芭蕉は旅の大きな目的の一つであったこの高館の丘に立ちました。

芭蕉は、悲劇の英雄に対する思い入れの強い人でした。芭蕉の墓は木曽義仲が祀られている義仲寺にありますが、これは生前から芭蕉が「死後は木曽殿と塚をならべてほしい」といっていたためです。

中でも、華麗な活躍をした後若くして悲劇的な最期を遂げた源義経に対する思慕の念は、大変強かったようです。奥の細道の旅行で、松島を経て平泉に着いた芭蕉は、まず高館の丘に向かいました。奥の細道には、「まず高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり」と丘からの景観を記しています。
現在は高館は北上川に沿った狭い尾根のようになっていますが、これはその後北上川の洪水により侵食されたためで、義経の時代は丘の上はかなり広かったようです。

高館の丘には、悲劇の英雄義経の址も奥州藤原家の栄華の址もなく、ただ夏草が生い茂げるのみでした。草原のはるか下方には、悠久の大河北上川が500年前と変わらずゆったりと流れていました。
奥の細道には、「国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て時のうつるまで泪を落し待りぬ。」とあります。ここで芭蕉が詠んだ有名な俳句の句碑が、丘の上に立てられていました。

    夏草や
      兵共(つわものども)が
        夢の跡
天和三年(1683年)に、仙台藩主第四代伊達綱村公が義経公をしのんでこの地に義経堂というお堂を建てたとされます。芭蕉が1689年に高館の丘に登ったときには草原の中に義経堂があったはずですが、奥の細道には義経堂についての記述がありません。

高館義経堂
高館義経堂

 高館義経堂は、義経が住んでいた館の址に建てられたとされます。
北上川の支流衣川が北上川に注ぐあたりに、衣川古戦場跡というのがあります。藤原泰衡が源義経を急襲し、義経の手勢がそれと戦った場所です。武蔵坊弁慶は、そこで義経を守って立ち往生と呼ばれる壮絶な討ち死を遂げました。
義経の館は、衣川古戦場跡と現在高館義経堂のある場所の中間あたりにあったのではないかともいわれます。


源義経像
源義経像

 義経堂の中には甲冑をつけた源義経の像が置かれており、堂の外から見られるようになっていました。私は、義経の像は、これまで他に見たことがありませんでした。戦の天才義経は、小柄で、風貌もあまり見栄えがしなかったという説を聞いたことがあります。

それに対して源頼朝の姿は、京都神護寺にある有名な肖像画(国宝)でよく知っています。実の弟を奥州の果てまで追い詰め、自害させた冷厳なる武将の内面を見せるような、鎌倉初期の大傑作です。


高館宝物舘
高館宝物舘

 高館の丘の上には、「高館宝物舘」という小さな建物もあり、義経に関連する武具、資料などが展示されていました。

仁王像のような一対の木彫(左の写真)が展示されていましたが、これらも何か義経に関係したものなのでしょうか。

芭蕉は、高館の丘を降りた後500メートルほど離れた中尊寺に向かいましたが、私どもはその逆のコースでまず中尊寺に行ってからマイクロバスでこの高館にきました。


武蔵坊弁慶の墓
武蔵坊弁慶の墓

 中尊寺の門前に、「武蔵坊弁慶之墓」と刻まれた大きな楕円形の石碑がありました。衣川で立ち往生した弁慶の遺骸をここに葬ったとのことです。そばには、「弁慶標の松」と呼ばれる松の大木が立っています。
説明板には、中尊寺の僧素鳥が詠んだものとして、次の俳句が記されてありました。
  色かえぬ
    松のあるじや
      武蔵坊  素鳥


中尊寺弁慶堂
中尊寺弁慶堂

 中尊寺の入口から月見坂と呼ばれる参道を登って行くと、まもなく弁慶堂(愛宕堂)というお堂があります。お堂の中には、源義経と弁慶の木像をが安置されてあり、また、国宝の「金銅剛孔雀文磬(けい)」も置かれています。磬とは、僧が勤行のときに鳴らす仏具だそうです。
弁慶は、もと天台宗の総本山延暦寺の僧兵だったので、同じ天台宗の東北大本山である中尊寺がその遺骸を引き取り、境内にお堂を設けて供養したのでしょう。


中尊寺金色堂
中尊寺金色堂

 中尊寺のもっとも奥にある金色堂には藤原三代の遺体が納められており、その中に義経を庇護した藤原秀衡も入っています。

頼朝の命により義経を攻めた泰衡は、その後頼朝に滅ぼされましたが、その泰衡の首級もここにあるそうです。

奥州藤原家の滅亡後、一時中尊寺も衰退しましたが、やがて奥州地方の経営を重視した頼朝が厚く援助したことによりようやく復活に向かいました。

金色堂も一時は非常に傷んでしまいましたが、頼朝夫人政子が夢のお告げに従ってさや堂で金色堂全体を納めさせて、金色堂の危機を救いました。ともかくも政子がさや堂を造らせたおかげで現在私どもがこの貴重な歴史資産に接することができるわけで、大いに感謝しなければなりません。

ひかり堂の句碑
ひかり堂の句碑

 それでも、芭蕉が訪れた時には金色堂は傷みが激しく、芭蕉は金色堂は崩れて無くなってしまうのではないかと嘆いたそうです。金色堂のさや堂を出たところに、芭蕉がこの地で詠んだ俳句の句碑があります。

  五月雨の
    降りのこしてや
      光堂  松尾芭蕉
現在では、金色堂は覆堂内の空調つきガラスケースにすっぽりと納められています。

芭蕉の奥の細道は、構成上、江戸出立の後松島を経て平泉に至るまでが前半と考えてよいかと思います。前記のように、悲劇の英雄源義経に対する芭蕉の思い入れは一方ならぬものがありました。芭蕉は初めから高館を前半のハイライトと想定し、周到な配慮をして奥の細道前半を構成した、というのが私の持論です。

義経が高館で自害したのは旧暦4月30日のことでしたが、芭蕉はその500年後の旧暦5月13日に高館の丘に立ちました。やはり、出来るだけ義経の悲劇と同じ時期にその場に行きたいと願ったのでしょう。

平泉を去った後、芭蕉は、最上川を川下りして日本海岸に出ました。義経が最上川を遡って平泉に向かったのとは逆のコースをたどったわけです。私どもも、早ければ2008年夏にも芭蕉の最上川下りを追体験したいと願っています。

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