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  都立雑司が谷霊園

 明治維新後人口が急増した東京では、近代的な大規模墓地が必要になりました。そこで、明治7年(1874年)に現在の東京都区部に青山墓地、雑司が谷墓地の二ヶ所の大規模墓地が造成されました。

雑司が谷墓地は、山手の住宅地に置かれたためか、開所以降文人・作家や歌舞伎役者・俳優・演劇関係者などが多数埋葬されています。今回は、この都立雑司が谷霊園についてレポートします。

都立雑司が谷霊園

都立雑司が谷霊園は、山手線西北端の目白駅の東側にあり、都電荒川線の雑司が谷停留所が最寄り駅です(上図地図を参照)。私どもの家からは都電荒川線は少々アクセスが不便なので、今回は地下鉄を利用して雑司が谷霊園の南側入口から入りました。

広大な霊園内

 雑司が谷霊園の面積は11.5ヘクタールで、同時期に造成された青山霊園の約半分です。しかし開所以来135年の年月により霊園内の樹木は空を隠すほどの巨木になり、広大な森林の中に墓が散在している観があります。

広大な霊園内

昔は霊園の土地にゆとりがあったのか、一つ一つの墓所のサイズが現在の普通の墓所よりかなり大きいように感じられます。また、中には石の柵がついた大きなお墓で高い石塔を持つものもありました。

広大な霊園内

龕墓・奥城

 歴史を感じさせる石造りのお堂のような墓所がありました。お墓というよりは、小さな要塞のような雰囲気があります。下左の写真のほうは、墓所の扉に「龕」と記してありました。大昔の遺跡の石室を思わせます。

下左の写真の墓所のほうは、墓所の側面に「奥城」と記してありました。奥城とは、「おくつき」と読んで上代の墓のことだそうです。

龕墓 奥城

島村抱月の墓
島村抱月の墓

 さらに北に向かって霊園の中を歩くと、劇作家・演出家島村抱月の墓がありました。抱月は新劇運動を推進し、女優松井須磨子とともに芸術座を創立しました。

抱月は、1914年にトルストイの小説 『復活』 を脚色し、芸術座で上演しました。劇中で須磨子が歌った《カチューシャの唄》が大評判となり、以降方々で興行を重ねました。
その4年後、抱月は当時大流行したスペイン風邪にかかり急逝しました。

市村羽左衛門の墓

 高名な歌舞伎役者十五代目市村羽左衛門の墓がありました(下の写真右側)。大正から昭和10年代にかけて美男役者として一世を風靡した人で、「切られ与三郎」の役などを得意としたそうです。

十五代目市村羽左衛門と共演することが多かったのが、名女形と謳われた六代目尾上梅幸でした。その梅幸の墓が、羽左衛門の墓のすぐ左隣に置かれてありました(下の写真左側)。お二人は、天国に行ってからもコンビで名調子を披露しているのでしょうか。

市川羽左衛門の墓

夏目漱石の墓

 さらに北に向かって歩くと、ひときわ大きな墓が見えてきました。雑司が谷霊園の中でもっとも有名な墓、夏目漱石の墓所です。

漱石は永年胃弱に悩みましたが、晩年には糖尿病なども併発して衰弱し、大正5年(1916年)12月9日に死去しました。まだ50才の若さでした。晩年の住居「漱石山房」がこの近くだったので、この雑司が谷霊園に葬られたのでしょう。

夏目漱石の墓

この墓は漱石夫人鏡子さんが高名な建築家にデザインを依頼したもので、漱石が愛用した安楽椅子の形をしているとのことです。鏡子夫人は長生きされて昭和38年に亡くなり、現在はこの墓で夫漱石とともに眠っています。

墓の表には、主の名前の代りに戒名が彫られてありました。漱石のほうは「文献院古道漱石居士」、鏡子夫人のほうは「圓明院清操浄鏡大姉」とありました。鏡子夫人の戒名には「鏡」という字が入っているのが、いかにも親しみやすく感じられました。

小泉八雲の墓
小泉八雲の墓

 雑司が谷霊園の中央部のあたりで、小泉八雲の墓を見つけました。ラフカディオ・ハーンは、1890年に来日し、島根県の英語教師になりました。後に日本人の妻の苗字から小泉八雲と名乗りました。

代表作 『怪談』(Kwaidan) は、妻節子が語った日本各地の伝説や幽霊譚などをもとに作られた作品集で、1904年にアメリカで発表されました。同年9月、狭心症で没し、この霊園に葬られました。

泉鏡花の墓
泉鏡花の墓

 作家で戯曲も多く発表した泉鏡花の墓がありました。尾崎紅葉の書生から出発し、1900年に 『高野聖』 を発表して大評判になりました。

1907年から新聞に連載した 『婦系図』 は、新派で上演され、現在に至るまで人気の高い演目になっています。また何度も映画化され、国民的人気を博しました。

鏡花は1939年9月、がんで亡くなり、当霊園に葬られました。

竹久夢二の墓

 明治の末から昭和の初めまで活躍した画家・詩人竹久夢二の墓がありました。
画家としては楚々たる佳人を描いた独特の美人画で有名でした。詩「宵待草」には哀愁のある曲が付けられて大流行歌になり、全国津々浦々まで広まりました。
国枝完二の墓

 時代小説作家 国枝完二の墓を見つけました。東京麹町生れの江戸っ子で、昭和31年に64歳で没したということです。
「歌磨呂をめぐる女達」など有名な作品を残しましたが、最近ではほとんど話題になることもなくなりました。

竹久夢二の墓 竹久夢二の墓

羽仁もと子の墓

 自由学園の創立者羽仁もと子の墓がありました。もと子は日本で初めての女性新聞記者となり、その後「婦人之友」など数多くの雑誌を創刊しました。
記録映画監督羽仁進は羽仁もと子の孫にあたり、やはり自由学園で学びました。
大川橋蔵の墓

 野村胡堂原作 《銭形平次》 のテレビ番組などで有名だった俳優大川橋蔵の墓を見つけました。墓の表には太い字で「如在」と刻まれてありました。
晩年はがんで入退院を繰り返し、昭和58年に55歳の若さでこの世を去りました。

羽仁もと子の墓 大川橋蔵の墓

大塚楠緒の墓
大塚楠緒の墓

 かつて漱石の恋愛の対象であったとされる大塚楠緒は、漱石の友人大塚保治と結婚していました。
昔から文才のあった楠緒は、かねてより小説家を志望しており、やがて漱石の教えを受けるようになりました。

楠緒は、漱石の推薦により小説を新聞に連載していた明治43年にインフルエンザから肋膜炎となり、11月はじめに35歳の若さでこの世を去りました。

青年時代からの長い係わり合いのある女性の早すぎる訃に接し、漱石は胸中に万感去来するものがあったことでしょう。おりしも鮮やかに咲き誇る菊の花に思いを託し、漱石は次の有名な俳句を楠緒の霊に手向けました。

   有る程の
       菊抛げ入れよ
           棺の中    漱石
その大塚楠緒の墓が、漱石の墓と同じくこの雑司が谷墓地の入口に近いところにありました(上の写真)。シンプルな白い墓石には、「文学博士大塚保治妻楠緒之墓」と刻まれてありました。

内藤鳴雪
永井荷風の墓

 雑司が谷霊園の北端、正面入口に近いところに作家永井荷風の墓がありました。

今回改めて荷風の生涯を調べて、その波乱万丈なることに驚きました。1945年3月の東京大空襲で六本木の自宅を失った後は千葉県市川市に住み、そこから浅草のレビュー小屋に足しげく通いました。

多くの小説のほかに、長期間にわたる日記 『断腸亭日乗』 を書いています。また、優れた俳句を多く残したことでも有名です。



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