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  宮本武蔵・吉川英治

 今年の三月、私どもは蕪村ゆかりの寺京都洛北の金福寺を訪れるため、その周辺の地図を調べていました。すると、金福寺の最寄の駅は叡山電車の「一乗寺」という駅であるのがわかりました。
なにしろ私は、50年にも及ぶ宮本武蔵ファン、吉川英治ファンです。一乗寺と聞いては、思わず心が躍りました。蕪村と宮本武蔵・吉川英治、まさに両手に花の思いでした。

一乗寺下り松

 一乗寺駅で叡山電車を降りて、山が見える方に歩いて行くと、やがて黒い大きな石碑が見えました。碑面には、「宮本・吉岡決闘之地」と書かれてありました。

道場当主清十郎、その弟伝七郎が宮本武蔵によって倒され、存亡の危機に立った名門吉岡道場は、吉岡兄弟の甥源次郎少年を決闘の名目人にたて、なりふりかまわず武蔵を討ち取る作戦をとりました。

武蔵は、敵方の厳重な見張りの裏をかいて、不意を突いて決闘の場であるこの一乗寺下り松に現れました。

そして、まず敵の大将である源次郎少年目がけて突進し、一刀のもとに切り倒しました。その後武蔵は、70余名といわれた吉岡一門の包囲網を切り破り、追手をかわしつつはるか彼方に脱出するのに成功したのです。

三度にわたる決闘で、武蔵は吉岡一門の主だった者たちをすべて討ち果たしました。どうしてここまでやらなければならなかったのかと、現代の私どもは思います。その中でも幼い源次郎少年を切ったことで、武蔵は後々まで非難されることになりました。
しかし、武蔵にしてみれば、武芸者の命をかけた決闘に勝つためには当然の行為であったのかも知れません。

八大神社

 吉岡一門との決闘に向かう途中、武蔵は一乗寺の近くにある八大神社(左の写真)の前にさしかかりました。
吉川英治の小説では、ここで神社に決闘の勝利を祈ろうとしますが、思い返して「我れ神仏を尊んで神仏を恃(たの)まず」と自らに言い聞かせ、そのまま決闘の場一乗寺下り松に向かったとしています。

この神社には、決闘当時の下り松の古株がおかれてあります。

また私どもが訪れたあとのその年の秋、二刀を構えて決闘する武蔵の銅像がここに建立されたそうです。

吉川英治さん
 吉川英治さんは、1892年生まれですから、俳人水原秋桜子と同年となります。親の事業失敗により勉学に進めず、若いころからさまざまな職業を転々としました。その中で、川柳の世界を知り、それを通して文学を目指すようになりました。

1935年から1939年にかけて執筆された長編小説 『宮本武蔵』 は、作家の創作エネルギーが最も高まった四十代半ばの傑作で、日本文学史上の記念碑の一つとなりました。

青梅の旧邸

 第二次大戦の末期、吉川さんは戦災を避けて東京都青梅市に引き越しました。
この青梅の旧吉川邸が、現在「吉川英治記念館」として一般に公開されています。
青梅の梅の名所「吉野梅郷」に近い山際の邸宅で、四季ごとに違う表情を見せる美しい庭も楽しめます。

記念館には、吉川さんの自筆原稿や、関係者とやりとりした書簡、身の回りの品々などが展示されています。
また吉川さんは俳人としても知られており、数多くの短冊も展示されていました。

  主去りし
      邸の門に
          萩紅く

断筆の日々
 この邸で 『新書太閤記』 を執筆し、新聞に連載しているうちに、敗戦を迎えました。日本の勝利を信じて疑わなかった吉川さんにとって大変なショックだったようで、その後二年間執筆をやめ、晴耕雨読の日々を送ったそうです。
敗戦の年昭和20年の吉川さんの俳句の一つです。
   恥づかしや
       昭和二十の
           冬の月  吉川英治

多摩の紅葉

 また、次の俳句も残しています。
  有山河
      多摩もひそかに
          紅葉して  吉川英治
「有山河」は杜甫の「国破れて山河あり」を引いたものと思われます。従って、これは「山河あり」と読むのかと思います。
写真は旧吉川邸の裏門と、その周りの見事な紅葉です。

やがて吉川さんはこのショックから立ち直り、畢生の大作 『新・平家物語』 に取り組み始めました。

吉川さんは、盛者必衰のさまを描いた語り文学平家物語にかねてより深く惹かれていたのです。

御殿山の旧邸

 昭和28(1953)年に、吉川さんはご子息たちの進学、通学には不便であった青梅から東京都品川区の御殿山に引越しました。
ちょうどそのころ、私も御殿山に住んでおり、毎日吉川邸の前を通って学校に行っていました。この旧吉川邸は、有名な建築家が設計した西洋建築の豪邸で、内部にはステンドグラスもあったということです。

この御殿山の邸で、大作『新・平家物語』が完成されました。1957年のことで、作家は65歳になっていました。『宮本武蔵』 の完成は47歳のときですから、その間18年の歳月がたっています。作家の代表作であるこれら二編の大作を読み比べると、18年の歳月の長さをはっきりと見ることができます。

菊見る日には

 医学博士で画家でもあった宮田重雄さんは、吉川さんの親友で、吉川作品の挿絵も多く担当されました。宮田さんご夫妻もその娘さんも、俳句を本格的にされたそうです。

その娘さんが結婚されるとき、吉川さんから手紙に添えて一句を記した短冊が届けられました。
  菊作り
      菊見る日には
          蔭の人  吉川英治
平明な句調ながら、若くから苦労した吉川さんらしい暖かい思いやりのある俳句です。

この俳句を読んで、宮田さん親子三人は涙をこぼしたそうです。

私も娘を一人他家に嫁がせましたので、この俳句を読んで思わず胸が熱くなります。読者の皆様も結婚式に出席して祝辞を述べるとき、この俳句を披露されれば出席者の感涙をさそうこと、私が請合います。
ただし、その際は、最初に「これは吉川英治さんの俳句ですが」と述べるのを忘れないようにしてください(^_^)。



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