トップページ 文学紀行 俳句エッセイ 写真と俳句 四季の風物 小説・評論



トップページ
文学紀行
メニューへ


  漱石の址を訪ねて

 文豪夏目漱石は、生涯の大部分を東京ですごした江戸っ子作家でした。生まれたのも死んだのも東京で、お墓も東京・雑司が谷にあります。
現在でも東京の方々に漱石に関係のある土地・建物が残っており、私ども文学ファンが漱石の址をたどることができます。

2005年の初め、たまたま東京・御茶ノ水でウェブの仕事をしました。

錦華小学校
錦華小学校

 そのとき明治大学の裏に御茶ノ水小学校という小学校を見かけましたが、これが漱石が通った錦華小学校の後身であることを知りました。
小学校の前には、左の写真の『吾輩は猫である』の石碑が建っていました。

当時、錦華小学校は上流家庭の子弟が通う名門校だったようで、漱石は他の小学校からここに転校してきたとのことです。

漱石はこの錦華小学校を優秀な成績で飛び級卒業し、府立一中に進学しました。


東大文学部
東大文学部

 東京帝大を卒業した漱石は、後の小説 『坊ちゃん』 の舞台となった松山中学の教諭を経て、熊本第五高等学校の教授になりました。その後、文部省留学生としてロンドンに派遣されました。その時期に、漱石は、強度の神経衰弱になって、留学期間を切り上げて帰国しました。その後、漱石は第一高等学校教授、東京大学講師となりました。

写真は、漱石が卒業し、後に教鞭をとった東大文学部の建物です。東大の中でももっとも古い建物の一つです。

漱石は、ここでの英語教師の仕事に嫌気がさしていましたが、そこに俳人高浜虚子がきて小説を書くことをすすめました。

漱石は、この時期文京区根津神社の近くの貸家に住んでいました。

猫の家石碑
猫の家

 そこでデビュー作 『我輩は猫である』 など初期の名作を執筆したことから、その家は「猫の家」とよばれます。現在はその家は「明治村」に移建され、その址に川端康成の筆になる石碑(左)が立っています。

石碑の横のコンクリート塀の上には、ブロンズの猫が一匹置かれてありました(^_^)。

なお、漱石が入居する前には、森鴎外がこの家に住んでいました。鴎外はここを出てから、近くの千駄木町に邸宅を構えました。


三四郎池
三四郎池

 初期の名作 『三四郎』 に登場して一躍東京名所の一つとなった三四郎池は、東京大学キャンパスの前身である加賀藩前田家上屋敷の時代からあり、「ひょうたん池」と呼ばれていたとのことです。

小説『三四郎』では、この池のほとりで三四郎は団扇を持った若い女性里見美禰子に出会います。美禰子のモデルは、文芸誌 『青鞜』 の創刊者平塚らいてうであったといわれます。

さほど大きな池ではありませんが、シーズンごとに池の周囲の表情が大きく変わり、訪れる人々を楽しませてくれます。

東大理学部
東大理学部

 小説 『吾輩は猫である』 で苦沙弥先生宅に集う愛すべきキャラクタの中に、「水島寒月君」という人がいます。
学問最高の府を一番で卒業した天下の秀才ということになっていますが、これは漱石の弟子でもあった物理学者寺田寅彦をモデルとしたといわれます。

写真は、東大理学部の中でももっとも古い建物で、現在では化学科の教室になっているそうです。

小説の中で寒月君が実験に使用する眼球レンズを磨いたのは、寅彦の職場であったこの建物ではないかと思われます。

漱石山房址の銅像
漱石山房址の銅像

 明治40年に漱石は神楽坂の借家に転居しました。漱石は、亡くなるまでの9年間をここで過ごし、『それから』、『門』 など晩年の名作を執筆しました。

芥川龍之介など漱石門下の作家をはじめ、芸術家などが多数訪れたこの家は、やがて「漱石山房」と呼ばれるようになりました。

しかし、1945年にこの家は戦災で焼失し、現在ではその跡地が新宿区立漱石公園となっています。

その公園のなかには、漱石の銅像が建てられていました(上の写真)。現在、山房の復元計画があるそうです。

漱石山房址の猫塚
漱石山房址の猫塚

 漱石山房址のなかには、「猫塚」という石を積み重ねた塚がありました。漱石が亡くなった後に、鏡子夫人が漱石家で飼っていた犬、猫、小鳥を供養するために建てたということです。
特に 『我輩は猫である』 の猫のために建てたのではないそうです。

漱石の短編小説 『文鳥』 は、弟子鈴木三重吉の勧めに従って漱石が白文鳥を飼ったときの顛末を書いた秀作です。

ある朝、漱石は、文鳥が止まり木から落ちて死んでいるのを見つけます。その文鳥も、この塚の下に葬られたのでしょうか。

漱石山房址の句碑
漱石山房址の句碑

 漱石の銅像の近くに石の搭が立っていて、その一面に漱石の俳句のパネルがはってありました。
「人よりも空、語よりも黙」と前書きがあって、次の俳句が記されていました。漱石自身の短冊を写したものということです。
  肩に来て
      人なつかしや
          赤蜻蛉  夏目漱石

石塔の別の面には、有名な「則天去私」の揮毫のパネルがありました。「天に則り私を去る」と読むそうです。

漱石山房址の最寄り駅地下鉄東西線早稲田駅西口の前にある坂道は、夏目坂とよばれます。

夏目坂
夏目坂

 漱石の父はこの界隈の名主だったそうで、漱石もここで生まれています。漱石は、晩年になって誕生の地の近くに戻ってきて、そこで亡くなったということになります。

坂の上り口には、「漱石誕生の地」の石碑があるとのことですが、見落としました。小倉屋という酒屋がありましたが、随筆 『硝子戸の中』 に「この店は堀部安兵衛高田馬場の決闘にも登場する」という記述があります。
ふとこの近くの寿司屋の看板を見ると、「三四郎」と書かれてありました(^_^)。




メニュー

トップページ 文学紀行 俳句エッセイ 写真と俳句 四季の風物 小説・評論


このウェブの姉妹サイト
実りのとき
このウェブの姉妹ブログ
実りのときブログ