 |
|
文学紀行 |
|
 |
芭蕉と並ぶ近世俳句の巨星、蕪村。私ども関東に住む俳句愛好者にとって、この蕪村の句碑、史跡などが関東に少ないのは大変さびしいことです。インターネットで検索しても、東京地域にはほとんどそれらしいものはありません。
このたび京都を訪れるチャンスがあり、早速蕪村の址を訪ねることにしました。京都洛北にある臨済宗の禅寺金福寺には、蕪村が再興した芭蕉庵があり、蕪村はここでしばしば句会を催しました。また蕪村の墓や句碑もあり、昔から蕪村の研究家はかならずここを訪れています。
新幹線・京都駅で降り、そこからJRと京阪線を乗り継いで洛北の出町柳駅に行きます。そこから叡山電車という小さな電車に乗り、3つ目の一乗寺駅で降りて10分あまり山の方向に歩くと、山際に金福寺の小さな山門が見えてきました。山門をくぐり、境内に入ってまず庭を拝見します。 |
|
|
境内はそれほど広くはありませんが、裏山の崖を生かした変化に富んだ造りになっており、つつじや紅葉のシーズンは大変見事だそうです。
庭の入り口に、蕪村の句碑がありました。
花守は
野守に劣る
今日の月 与謝蕪村
桜も終わりに近づいたころ、野原は瑞々しい緑に包まれます。その晩春の夕暮れには、花見より野原の散策のほうが趣きがある、という句意でしょうか。 |
|
|
芭蕉は当寺の鉄舟和尚と親しくしており、しばしばこの寺の庵に滞在しました。芭蕉がその庵に滞在中に詠んだ俳句が残っています。
うき我を
さびしがらせよ
閑古鳥 松尾芭蕉
芭蕉没後、時が経って、その庵は荒廃していましたが、その後蕪村が尽力して再興しました。それが、現在寺の裏山にある芭蕉庵です。 |
その芭蕉庵の裏には大きな掲示板があり、蕪村が、敬慕する芭蕉への思い、そして芭蕉が句作を行った庵の荒廃を知って再興するにいたった経緯をつづった一文が掲示されています。
新幹線・京都駅で降り、そこからJRと京阪線を乗り継いで洛北の出町柳駅に行きます。そこから叡山電車という小さな電車に乗り、3つ目の一乗寺駅で降りて10分あまり山の方向に歩くと、山際に金福寺の小さな山門が見えてきました。山門をくぐり、境内に入ってまず庭を拝見します。 |
|
|
芭蕉庵のある裏山は、京都の町が遠望できる景勝の地として有名です。
その裏山の林には、俳人、歌人、画家などの墓がたくさんありますが、その中に蕪村の墓がありました。
左の写真のような簡素な墓で、林の木暗がりの中に少し傾いて立っていました。あれほどの業績を残した芸術家の墓としては、少々さびしい気がします。
我も死して
碑に辺(ほとり)せむ
枯尾花 与謝蕪村
|
私も死んだら敬慕する芭蕉の句碑の近くの墓に入りたい、という意味でしょう。
庭や墓所の見学を終え、金福寺の本堂に入りました。 |
|
|
本堂には蕪村や蕪村一門の遺品、絵画、短冊などがたくさんあります。左の掛軸は蕪村の肖像画だそうで、私は蕪村の肖像を見るのはこれがはじめてでした。どこかひょうひょうとして優しさのある風貌でした。
大きな文学館や美術館では、このような貴重な美術品や遺品は写真撮影禁止になっていることが多いのですが、このお寺では撮影が禁止されていなかったのは大変有難いことでした。 |
|
|
蕪村は生前は俳人としてより、書家、画家として高名でした。その書画の力量を発揮して、蕪村は敬慕する芭蕉の「奥の細道」に絵画を付けた絵巻を制作しました。 これは、現在国の重要文化財になっています。このお寺にはその奥の細道絵巻の複製がありました。
この奥の細道絵巻を精魂傾けて制作したことからも、蕪村がいかに芭蕉に傾倒していたかが察せられます。そのように芭蕉に傾倒しつつも、蕪村は芸術家としての資質が芭蕉とは大きく異なっているのを自覚しており、次第に独自の句風を形成して行きました。 |
私が日ごろ愛聴しているドイツリートの世界にたとえれば、芭蕉は叙事的、内面的なシューベルトの世界に近く、一方蕪村は叙情的、詩的な表現でまったく新しい音楽の領域を形成したシューマンにたとえられましょうか。
金福寺の本堂に、「蕪村ここで詠める句」として次の俳句が掲示されていました。
三度啼(な)きて
聞こえずなりぬ
鹿の声 与謝蕪村
このような詩的な表現は、蕪村をおいて外には見たことがありません。 |