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文学紀行 |
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この春、蕪村の址を訪ねて、京都洛北にある臨済宗の禅寺金福寺(こんぷくじ)に行きました。金福寺は町外れの小さなお寺ですが、庭が裏山にかけて造成されており、季節ごとに変化に富んだ表情を見せるので有名です。 |
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その庭を通り、裏山を登ると、蕪村が再興した芭蕉庵があり、そのさらに上の林の中に蕪村の墓がありました。
そのうちに、空が次第に暗くなり、やがて本降りになってしまいました。そこで、また寺に戻って本堂に上がり、蕪村の残した書画などを見ていたところ、それらの横に「村山たか女」と書かれた説明用のボードがあるのに気がつきました。
驚いてその近くを見回すと、村山たか女の位牌や数点の遺品、手紙などが展示されていました。 |
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村山たか女は、彦根藩城下の三味線師匠で、和歌を詠み、漢籍にも通じた才女でした。彦根藩士で国学者の長野主膳と、愛人関係にありました。
やがて彦根藩主井伊直弼が黒船渡来に始まる幕末の危機に幕府大老に起用されたのに伴い、長野主膳は井伊直弼の懐刀となって活躍するようになりました。
この風雲急を告げる幕末の時期に、たか女は、長野主膳の意をうけて京都などで開国に反対する尊皇攘夷派の情報を収集する活動をはじめました。 |
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当時としては珍しく世界の情勢に通じていた大老井伊直弼は、日米修好通商条約を締結して開国することを主張し、尊皇攘夷派と鋭く対立しました。
直弼は、安政の大獄で反対勢力を強圧し、日米修好通商条約の調印を強行しましたが、その2年後の1860年に雪の江戸城桜田門外で水戸浪士に襲われ、46歳の生涯を閉じました。
京都で井伊大老の密偵として働いていたたか女は、尊皇攘夷急進派の天誅組に捕えられ、京都三条河原で三日三晩の生き晒しにされました(左の写真)。 |
その後救出されたたか女は、この金福寺で尼となり、井伊直弼、長野主膳を弔って暮らしたということです。
私どもが金福寺を訪れたのは3月下旬のことで、寒さが厳しいこの地にも早咲きの桜が咲き始めていました。
たか女眠る
蕪村の寺の
花の下
後で知ったのですが、たか女の墓は、この金福寺ではなく近くの圓光寺というお寺にあるそうです。 |
井伊直弼、村山たか女を中心に、開国前後の波乱の人間模様を描いたのが、船橋聖一の小説 『花の生涯』 です。
皆様は船橋聖一という小説家をご存知でしょうか。船橋聖一は1904年生まれで、私が小説などを読み始めたころは大変な人気作家でした。 『花の生涯』 は昭和27年から28年にかけて新聞に連載されましたが、大人気となり、私もときどき読んだ記憶があります。その後東京オリンピックの前年昭和38年にはNHKの大河ドラマ第一号としてテレビ放映され、お茶の間の大フィーバーとなりました。
今回この項を書くにあたり、 『花の生涯』 を読もうと思い、世田谷中央図書館に行きましたが、船橋聖一の本が一冊もありませんでした。図書館の係の人に探してもらったところ別の図書館にあるということで、取り寄せてもらいました。
一週間ほどしてやっと届いた 『花の生涯』 ですが、十ページほど読んだところで早くも白けてしまいました。船橋聖一ファンの方々からは叱られそうですが、雑な文体、通俗的なストーリー設定が目立ち、全体として品格の乏しさと密度の低さを感じます。
やはりこの程度の芸術的内容では、30年の星霜の試練に耐えるのは難しいと思います。私は、身近にいる若い人々に少なくとも30年間の評価に耐えた文学を読むことを推奨していますが、今回もそれが正しいのを確認できました。 |
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金福寺の村山たか女の遺品の中に、直弼の和歌の色紙がありました。直弼は、不遇時代に睡眠時間を削ってまで文武両道の修練に励み、和歌もよくしたといわれます。
柴の戸の
しばしと云いてもろともに
いざ語らはん埋火のもと
井伊直弼
直弼は、不遇時代の自分の住家を埋木舎(うもれぎのや)と呼んでいたということです。たか女は34歳のときこの色紙を井伊直弼からもらい、一生大事にしていたそうです。 |
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桜田門外で暗殺された井伊直弼は、私の家から歩いて20分ほどのところにある禅寺豪徳寺に埋葬されました。
現在の世田谷区は、江戸時代には彦根藩世田谷領になつていて、豪徳寺は井伊家の江戸における菩提寺だったのです。
世の中を
よそに見つつ埋もれ木の
埋もれておらむ心なき身は
井伊直弼
将来に夢も希望もない部屋住み時代に直弼が詠んだ和歌です。 |
その後、直弼が32歳のとき、彦根藩主だった兄が急死したため、直弼は思いもかけず彦根藩主に就任することになりました。 そして大老という最高位に上り詰めたのもつかの間に暗殺されるという波乱万丈の人生をたどった井伊直弼は、豪徳寺にある墓所(上の写真)に静かに眠っています。
井伊直弼は、和歌のほかに俳句もたしなんだようで、上記 『花の生涯』 の中にいくつかの俳句が引用されています。それらの中に次の俳句がありました。
それ鞠(まり)の
行方や
おぼろ月一つ 井伊直弼
春の日が長くなってきた夕方近く、暖かくなったのでつい暮れかかるまで鞠遊びをしていたのでしょうか、空中に放りあげられた鞠を目で追うと、鞠の向こうのなお明るさの残る空におぼろ月がかかっているのが見えた、という句意です。
井伊直弼は居合抜きの名人だったそうですが、この俳句には私どもが作る平凡な俳句とはまるで世界が違う切れ味があります。井伊直弼という人物のスケールの大きさの一端を垣間見る思いがします。 |