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  冬木・世田谷

 世田谷区にある砧公園は、東京都の公園の中で一二を争う大公園です。少なくとも、東京23区の中では最大の公園であるのは、間違いありません。そのように面積が大きいためか、砧公園の中の樹木は特に枝を詰めるなどということはせず、自然のままに放置してあるようです。
そのように好き放題に枝を伸ばして数十年もたつと、樹形が大きくなるとともに、樹形全体のバランスが自然に非常によくなり、堂々たる存在感が生まれます。

東京周辺では12月になると、木枯らし、空っ風などという強い風が吹き、落葉樹の木の葉を吹き払います。それ以降は、冬晴れが続き、雪もほとんど降りません。この時期には、砧公園の大樹は、冬空をバックに威厳のある冬木の姿となるのです。

ユリノキ

 砧に巨木が多い中、一際強烈な存在感を示す木です。樹種はユリノキかと思います。

ものの本には、「ユリノキは、5月から6月にかけて花を咲かせる落葉高木で、高さは約20mほどにもなる。原産地は北アメリカ」とあります。この木も、高さは20mを大きく越えているように思われます。冬季にはすっかり葉が落ちて、曲がりくねった太い幹や枝があらわになります。

緑の巨塔のようにそびえている夏の姿ももちろん堂々としていますが、やはり冬樹の存在感、力強さはさらに圧倒的です。

髪を振り乱して第9シンフォニーを指揮するベートーベンのようではありませんか。

昔、高校生のときでしょうか、アメリカの小説家エドガー・アラン・ポーの「黄金虫」という小説を夢中になって読んだ記憶があります。その中で宝探しをしますが、その際、主人公がジュピターという黒人の召使いに命じてユリノキの大木によじ登らせる場面があります。
主人の命令とあってはやむを得ず、ジュピターが大きな体で必死に大木をよじ登るくだりが、気の毒でもあり、またどこかユーモラスだったのを覚えています。
   枝越しの
     冬空広き
       大樹かな
歳時記などを探しましたが、巨大な冬木への畏敬を詠んだ俳句が少ないのには、大変さびしい思いをしました。
   ことごとく
     落葉し
         大樹枝を張る  内田幸子

桜の冬木

 砧公園の一角に、梢も幹も枝も好き放題に伸ばしきった巨木の一群がありました(左の写真)。これらはみなソメイヨシノです。

横に長々と伸びた枝は、地面すれすれに垂れ下がっています。私どもがまたいで越えられる枝もあります。砧公園ならではの、ダイナミックな冬木の姿です。

やがて3月末になると、これらのソメイヨシノの大木はみな豪華な花ごろもに包まれます。現在の冬木を見ながら、もう、弥生の青空をバックに咲き誇る満開の桜の華やかさを思い浮かべました。

   遠の枯木
       桜と知れば
           日々待たる  野沢節子
俳人野沢節子は、1920年生まれとのことで、現代俳壇の最長老金子兜太さんと同年です。24年間の闘病生活を送ったそうですが、やはり芯が強かったのでしょうか、75歳まで生きて、このような優れた俳句を数多く詠みました。

長期療養生活の中の俳人、歌人の作品には、異常なまでに熱っぽい自然観、季節感を感ずることがよくあります。俳人では、石田波郷、石橋秀野、そしてこの野沢節子などです。
上記の俳句では、「日々待たる」で、病床の作者が胸を焦がすばかりに桜の開花を待ち望む思いが読者にひしひしと伝わってきます。

かくれ待ちゐし

 公園の広い芝生の中に、二本のソメイヨシノの大木が枝を接するように立っています。
桜の花が咲いている時期、あるいは葉が生い茂っている時期には、遠くから見ると、一本の巨木のように見えます。

しかし、冬になって木の葉が落ちると、二本の木の太い幹や枝がはっきりと分かれて見えます。ひたと寄り添う恋人同士の姿を思わせます。
 逢ふ人の
   かくれ待ちゐし
     冬木かな  野見山朱鳥

この俳句に詠まれている冬木も、桜だったのでしょうか。
画家・版画家でもあった野見山朱鳥(のみやまあすか)も、人生の三分の一を病床で過ごしたそうです。朱鳥は「ホトトギス」で活躍し、虚子に激賞されましたが、虚子とは明らかに句風が異なります。この俳句にはどこか古典和歌のような趣きがあり、何度も繰り返し読んで味わいたくなります。

モミの巨木

 歳時記を見ると、冬木とは冬季の樹木の総称であり、落葉・常緑を問わないとしています。

確かに落葉樹の冬木は、その変身ぶりがドラマチックなだけに印象が強いのですが、まわりの落葉樹がすべて葉を落として野もすっかり緑を失う厳冬に緑の巨体でそびえる針葉樹の大木も、思わず胸を打たれるほどの存在感を持っています。

この巨大な樅(モミ)の木は、砧公園の空に向かってそびえ立ち、この時期の低い冬日がその梢にかかって輝いていました。

  樅(モミ)にかかる
      冬日緑に
          輝けり

落葉松の林

 東京地方では真冬でもほとんど雪が降らないので、すっかり葉を落とした落葉樹の林は隅々まで日の光が行き渡り、非常に明るくなります。

北原白秋が「からまつはさびしかりけり」と詠んだのは浅間山麓の秋の落葉松林ですが、それより少し後の時期になると落葉松の葉が金色に色づき、落葉松林全体が金色に包まれます。

落葉松は、針葉樹でありながら、松、ヒノキなどとは違って季節ごとにドラマティックな演出をして見せる樹種です。

   黄落の
       森の明るさ
           かなしめり   山田良穂
そのように明るい森では、心中の寂しさが天にすっかり見透されるようで身の置き所がない、ということでしょう。黄落の華やかさと胸中の寂しさの対照が、大変印象的です。

この黄落の時期からさらに一月も経つと、その落葉樹の金色の葉もすべて落ちてしまい、明るい冬空が見渡せるようになります。

冬木立
蕪村の冬木立の句

 さて、今回の「冬木」のページでは、超大家の俳句を引用するのはやめようと思っていました。上記のように、日ごろそれほど目にしない俳人の作品にも、非常に優れた俳句の数々があるからです。

しかし、その後歳時記やインターネット検索で調べていて与謝蕪村の次の俳句を見つけたとたん、そんな考えは吹き飛んでしまいました。

  斧入れて
      香におどろくや
          冬木立   与謝蕪村

なんという鮮やかで瑞々しい俳句でしょうか。灰褐色の冬木に、鋭い音をたてて斧が打ち込まれると、白い切り口から強い生木の香りが発散し、寒林の中を広がります。
まさに大天才蕪村ならではの俳句で、一度読めば一生忘れることはありません。




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