新境地を開く芭蕉のチャレンジは始まったばかりで、さまざまな模索が続きました。
杉風その他弟子たちのおかげで、芭蕉は深川の芭蕉庵で句作に専念することができるようになりました。しかしそれも束の間、2年後の年の暮れに「八百屋お七の大火」が発生し、芭蕉庵も焼失してしまいました。芭蕉は大火に追われ、庵の近くの大川に飛び込んで難を逃れたといわれます。
翌1683年秋になって友人や門弟たちが芭蕉庵再建のための勧進活動をはじめ、集まったお金を元に、その年の暮れに新しい庵が建てられました。これを第二次芭蕉庵と呼びます。新庵は、もとの第一次芭蕉庵とほぼ同じ位置に建てられたとのことです。 |
この後芭蕉は、能因、西行など漂泊の詩人への傾倒を深めていきます。この第二次芭蕉庵を基地にして、「野ざらし紀行」、「鹿島紀行」、「笈の小文」、「更科紀行」の旅を相次いで行ないました。
第二次芭蕉庵ができてから5年ほどたった1689年の春、芭蕉は奥羽、裏日本を一周する壮大な旅行を計画しました。この「奥の細道」の長期旅行を決行するに当たり、芭蕉は愛着去りがたい第二次芭蕉庵を人手に渡しました。 |
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「奥の細道」の大旅行は無事に終了し、芭蕉は故郷大垣に到着しました。 その後芭蕉は関西各地を漂泊し、結局江戸を出立してから2年半後の1691年9月にようやく江戸に帰着しました。
それからしばらくして、また杉風、曽良など弟子たちの尽力により、旧第二次芭蕉庵の近くに第三次芭蕉庵が新築されました。 この庵は、芭蕉の死後長く保存されていましたが、やがて幕末の混乱の中で失われてしまいました。
大正6年に隅田川に大津波が発生しましたが、その後芭蕉庵があった場所から芭蕉庵に置かれていた石の蛙が出土しました。 |
その石蛙は、現在は近くの「芭蕉記念館」に収められています。石蛙の出土により、第三次芭蕉庵があった場所が特定されました。その跡には、現在、芭蕉稲荷という小さな祠が建てられています。
古池や
蛙飛び込む
水の音 松尾芭蕉
の有名な俳句がこの地で詠まれたのにちなんで、蛙の碑が立っていました(^_^)。
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上記第三次芭蕉庵の跡から50メートルほど離れた隅田川の河畔の小高い丘に、「芭蕉記念館分館」と呼ばれる場所があり、芭蕉の銅像が立っていました。
芭蕉像のまわりには、芭蕉の俳句や関連する資料などのプレートが配置されています。
この地域は、現在でも当時のおもかげを留めている下町で、お稲荷さんや小さな祠、地蔵さんなどがたくさんありました。 休日でしたので、お稲荷さんの前の路地で土地の人が七輪を持ち出して炭火をおこし、お仲間と一杯やっていました(^_^)。 |
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今回調査を行った結果、三度にわたる芭蕉庵の建築に関わった弟子杉風の献身的な努力がわかってきました。杉風の尽力がなかったら、芭蕉はあのように偉大な創作活動を行えなかったのではないかと思います。
調査をしているうちに、杉山杉風の墓が、世田谷区宮坂の成勝寺というお寺にあるのを知りました。地図で調べると、私どもの家から歩いて30分ほどのところとわかり、さっそくカメラ持参で杉風の墓参りに行ってきました。墓碑に汚れが厚く付着していて、碑面の俳句が読み取れなかったのが残念でした。 |