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俳句エッセイ |
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先日東京都八王子市にある高尾山薬王院を訪れたとき、お山の頂上にある飯縄権現堂の裏で、俳人水原秋桜子の句碑を見つけました。
仏法僧
巴に翔けて
杉の鉾 水原秋桜子
水原秋桜子は、1892年に東京に生まれました。作家の芥川龍之介や吉川英治と同年生まれ、俳人高浜虚子より18歳年下となります。秋桜子は88歳まで生きましたので、亡くなったのは昭和54年のことでした。 |
秋桜子は早くから俳句と短歌に親しみ、東大在学中に高浜虚子に師事するようになりました。昭和の初めには、秋桜子は短歌的な詩的世界の俳句で注目をあび、阿波野青畝、山口誓子、高野素十とともに 『ホトトギス』 の4Sと謳われるようになりました。
このころ、野鳥研究家としても有名な歌人中西悟堂の案内で、秋桜子が高尾山に行ったという記録があります。上記の俳句は、その折に詠んだものかと思われます。
清新な俳句ですが、どこか言葉の感覚を強調しすぎて人工的になっている、と感じます。これは私だけではないと思いますが、いかがでしょうか。 |
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1930年、38歳のときに、秋桜子は第一句集 『葛飾』 を刊行しました。
当時は、東京都葛飾区はまだ水郷の雰囲気が残っている田園地帯でした。秋桜子は、子供のころから葛飾界隈に何度もいっており、その地域をよく知っていましたが、この句集を刊行したときは、一度も葛飾に行かずに昔の景色を思い出しながら俳句を作ったそうです。
私には、これは秋桜子の創作活動の重要な部分を明らかにしているように思えます。芭蕉や子規は、基本的に実景を目の前にして、句作を行いました。 |
一方、優れた画家でもあった蕪村は、時にまったく空想の世界で俳句を作ったそうです。ある評論家は、「秋桜子にとっては、《何を表現するか》 より 《どのように表現するか》 のほうが、はるかに重要であった」と述べています。 花鳥風月の実景を前にした感動を詠むのを前提とした虚子とその一派とは、そもそも出発点が異なっていたのです。
従って、秋桜子にとっては、時代につれ急速に変化している葛飾の実景に接するより、自分の脳裏にある昔の葛飾の風景をもとにして創作を行うほうがよかったのでしょう。 |
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その句集 『葛飾』 の中の、有名な一句です。
葛飾や
桃の籬(まがき)も
水田べり 水原秋桜子
桃が咲くころですから、田んぼはまだ田植えの前です。農家の垣根の桃が華やかに満開となり、横にある田植え前の水田の水面にその桃の花が映えている、という俳句です。
いわゆるホトトギス調とはまったく異なる叙情的、清新な句調で、当時秋桜子の俳句は短歌的と評されたそうです。 |
これらの俳句が、その後の昭和俳句革新の引き金になったとされます。
籬という万葉集の古語を使っていますが、このようないわゆる万葉調俳句は、秋桜子、山口誓子らが研究し、盛んに発表しはじめました。やがてこれは俳界の大流行となり、同時代の杉田久女なども一時万葉調の俳句をつくっています。
万葉詩歌の言葉のみやび、そしてそれらの古語が連想させる広大な詩的世界を、俳句に持ち込もうとしたのでしょう。その点では、斉藤茂吉の万葉調短歌と同じかと思います。
しかし、この万葉調なるものに、私は昔から疑問を持ってきました。一体、現代語というのは、俳句の表現において古語の助けを必要とするほど貧しいものでしょうか。基本的に、「歌は世につれ」が、人類が文化の発祥以来経験してきた道だと思います。その時代の読者に作者の感じた感動を伝えるには、その時代の言葉、その時代の表現を用いるのが自然であり、またそれが最も強力な手段となるのです。
結局、秋桜子らの万葉調俳句は一時の流行に終わり、その後の俳句の歴史に大きな影響を与えなかったように思われます。 |
このころから、言葉の日常性を抑えその詩的連想性を重視する秋桜子と、従来からの客観写生路線を唱える高野素十およびそれを支持する虚子との間で俳句上の論争が絶えなくなりました。
ついに昭和9(1934)年、秋桜子は 『ホトトギス』 を離脱し、俳誌 『馬酔木(あしび)』 を主宰して独自の俳句活動を行うことになりました。当時の俳句界をリードしていた虚子に叛旗を翻すわけでから、秋桜子は完全に孤立する覚悟をしたといわれます。
ところが、その秋桜子のもとに、新時代の俳句への意欲に燃えた若い俳人たちが次々に参集してきました。マンネリ化しつつあった 『ホトトギス』 の路線にあき足らない若い俳人たちがいかに多かったかがわかります。やがて、俳誌 『馬酔木』 は、昭和俳句革新の拠点となり、『ホトトギス』 と対抗するようになりました。 |
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樗(おうち)咲けり
古郷波郷の
邑(むら)かすむ 秋桜子
五十崎古郷は、松山の俳人で、その門下に石田波郷がいました。
秋桜子が 『ホトトギス』 を離脱したとき、古郷は門弟石田波郷とともに 『馬酔木』 に移り、やがて馬酔木の同人となりました。上記は、秋桜子が松山の古郷、波郷の生地を訪れたときの俳句です。
樗(おうち)とは、栴檀(せんだん)のことだそうです。 |
昔私の生家の隣に栴檀があり、6月ごろうす紫色の小さな花をつけたのを覚えています(上の写真)。
石田波郷のほかに、加藤楸邨、中村草田男などの俊英が、次々に秋桜子の門をたたきました。また、後に女流俳句の新境地を開いた橋本多佳子も参加しました。それらの新進俳人が、切磋琢磨して新しい俳境を切り開き、昭和の俳句革新を推進したのです。その突破口をつくり、後進を育成した秋桜子の功績は、極めて大きいといえましょう。
『ホトトギス』 を離脱したころの秋桜子の句は、虚子との対抗意識からか、不自然なまでに言葉の感覚を強調した作品が多いように思われます。斬新ではありますが、私にはどうも短詩としての奥行きが乏しいように感じられてなりません。その間、秋桜子は、一時無季俳句に熱中した時期があるようです。一生、モットーとする「文芸上の真」の探求に努めた芸術家でした。
晩年には、そのような肩肘張った句調がうすれ、非常に透明で自然な俳句を詠むようになりました。
わがいのち 向日葵(ひまわり)の
菊にむかひて 空かがやけり
しづかなる 波の群
水原秋桜子
私はこのころの俳句に最も心惹かれますが、秋桜子ご自身はやはり若いころ詠んだ作品がお気に入っていたのでしょうか。
昭和54年に、秋桜子は88歳の生涯を終えました。やはり、88歳の長寿というのは、大変なものです。18歳年長の虚子はもちろんのこと、宿命のライバル高野素十、同年生まれの芥川龍之介、吉川英治も、とうに亡くなっています。年下の杉田久女、橋本多佳子もこの世を去り、弟子の石田波郷まで師に先立ちました。
しかし、この秋桜子は、最後まで「文芸上の真」の探求にあくなき執念を燃やしました。秋桜子は、絵画にも大変詳しかったとのことですが、長い年月の間にドラマティックな変貌を重ねながらひたすら前進する姿は、どこかピカソを思わせます。 |
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やはり、長生きはするものです。そのおかげで、秋桜子は全盛期となったプロ野球を楽しむことができました。晩年には、ナイターなど野球を題材とした俳句をいくつも詠んでいます。
ナイターの
いみじき奇蹟
現じけり
ナイターの
ここが勝負や
蚊喰鳥 水原秋桜子
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ナイター中継で、テレビにかじりついてごひいきのチームを応援する秋桜子さんの姿が目に見えるようですね(^_^)。虚子や高野素十と大激論をかわしたり、弟子の石田波郷を破門にしたりと、大変激しい面のあった秋桜子ですが、晩年には、熱烈なるプロ野球ファンとなったようです。
あまり仲のよくない虚子の先生ではありますが、日本に野球を導入してくれた子規に感謝したかも知れませんね(^_^)。 |
虚子や高野素十と大激論をかわしたり、弟子の石田波郷を破門にしたりと、大変激しい面のあった秋桜子ですが、晩年には、熱烈なるプロ野球ファンとなったようです。
あまり仲のよくない虚子の先生ではありますが、日本に野球を導入してくれた子規に感謝したかも知れませんね(^_^)
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