あの世にいったら人魂となって、虫すだく夏野原をふわりふわりと散策しようというわけです。実に人を食った、悠々たる俳句です。 一説によると、日本人の画家でピカソに匹敵する物量を制作したのは、北斎だけだそうです。当時としては超長寿である92歳まで生き、常人の何倍もの業績を挙げ、見事な大往生を遂げた「快人」の辞世の句です。
私などは、北斎さんの爪のアカでも煎じて飲みたいくらいです。 |
|
|
一方、俳聖松尾芭蕉の辞世の句は、俳句に関心のある人なら誰でも知っています。
旅に病んで
夢は枯れ野を
かけめぐる 松尾芭蕉
恐ろしい辞世の句であり、芭蕉の一生を通じても指折りの秀句です。芭蕉は、旅先の大阪の旅籠で食中毒により亡くなったということです。
最晩年のこの時期、芭蕉は、「奥の細道」に匹敵する中国・九州地方の歌枕を訪ねる長旅を計画しつつあったといわれます。 |
しかし同じ辞世の句といっても、上記北斎の俳句とは何とタイプが違っていることでしょうか。北斎の俳句は、したいことは十二分にしたので、あとは悠々とあの世で暮らそうというわけですが、芭蕉の方は次の大旅行でさらなる新境地を開きたい、ここで死ぬのはあまりにも無念だという思いが読者に伝わってきます。
その人の人生を反映する辞世の句の興味深いところです。 |
|
|
与謝蕪村は、臨終のときに三句を詠み、その最後が次の俳句であったとされます。
しら梅に
明る夜ばかりと
なりにけり 与謝蕪村
家の外では白梅の花が咲いて春めいてきたが、私の生涯もやがてその白梅が見えてくる夜明けには尽きることになりそうだ、という句意でしょう。縹渺とした中にほの明るい叙情性をたたえた蕪村ならではの秀句です。 このほの明るさが、いかにも蕪村らしいと思います。 |
|
|
正岡子規は二十代の若さから肺結核、脊髄カリエスに冒され、床に伏せったままの闘病生活を送りながら、旺盛な文芸活動を行いました。
36歳で亡くなるとき、かねてより用意していた唐紙に有名な「糸瓜三句」をしたためました。その一つが、次の俳句です。
糸瓜(へちま)咲て
痰のつまりし
佛かな 正岡子規
糸瓜は、秋口にきゅうりや南瓜とよく似た黄色い花をつけます。 |
糸瓜が庭に明るく咲いているが、私はこのひどい痰で窒息して仏になってしまうのかという句意です。 私が子供のころは、糸瓜のつるを途中で切り、そこからぽたぽたと出る糸瓜水を化粧水などに利用していました。子規は、庭に植えた糸瓜の水を痰の治療に使っていたようです。
子規のあたりから、「辞世の句」というやや大げさな言葉はなくなってきたようで、この俳句も特に「辞世の句」と呼ばれるわけではありません。この最後の俳句にちなみ、子規の命日9月18日を糸瓜忌と呼びます。 |
|
|
石橋秀野(いしばしひでの)は、1909年生まれの女流俳人で、歳時記編纂でも有名な文芸評論家山本健吉の奥さんでした。
若いころから結核で苦しみましたが、終戦後の昭和22年に病状が悪化し、病院に入りました。その病院で、秀野の名を不朽にした次の俳句を詠みました。
蝉時雨(せみしぐれ)
子は担送車に
追ひつけず 石橋秀野
担送車とは、病院で重症患者を移送するのに用いる車輪のついたベッドのことです。 |
作者は病院の廊下を担送車に乗せられて移送されて行きました。行き先は重症病棟でしょうか、あるいは手術室でしょうか。病院の外からは、旺盛な夏の活力を示す盛大なせみ時雨が聞こえていました。
ふと自分の子供の声が聞こえました。お母ちゃん、お母ちゃんと泣きながら自分を呼んでいます。しかし子供の足では担送車に追いつけないらしく、その声が次第に小さくなってゆくのを、重病の苦しさのなか嗚咽しながら聞くほかありませんでした。
この句を詠んだ直後から容態が悪化したため、担当医師から作句を禁止されました。したがって、この俳句が秀野の人生最後の句ということになります。入院の二ヶ月後に、秀野は38歳の若さで亡くなりました。 |