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 杉田久女は、1890(明治23)年に鹿児島県に生まれました。東京のお茶の水高等女学校を卒業した後、明治42年画家杉田宇内と結婚しました。
夫が小倉中学(現小倉高校)の教師となったため小倉に住むようになりましたが、後にその地で橋本多佳子と運命的な出会いをすることになります。
久女は、育児の傍ら兄の影響で俳句を始め、やがて虚子の主宰する俳誌ホトトギスの雑詠欄に投句するようになりました。

花衣
花衣の俳句

 こうして久女は、女流俳人の先駆者として有名な長谷川かな女に続くグループの一人になりました。

大正8年には、後に久女の代表句といわれるようになった次の俳句がこの雑詠欄に入選しています。
  花衣
      ぬぐや纏わる
          紐いろいろ 杉田久女

花見のあと家に帰り、次々に紐を解いては着物を脱いでリラックスすると同時に、花疲れを覚えるというところでしょうか。
女性のあでやかさ、華やかさを鮮やかに表現する中に、古典的な詩味をたたえた名句です。男性には発想することさえとてもできない俳句でもあります。

足袋
ノラともならず

 久女の才能は俳句という舞台を得て一挙に開花し、次々に秀句を発表するようになりました。このころ、かつての美術への情熱を忘れ、田舎教師に甘んじている夫との不和が危機的な状態となりました。
  足袋(たび)つぐや
      ノラともならず
          教師妻  杉田久女

久女の俳句の中で最も有名な上記俳句は、このころ詠まれたものです。当時評判であったイプセンの戯曲 『人形の家』 の女主人公ノラは、妻の生活と近代人の自我との間に悩み、遂に意を決して家を出て行くが、久女はそれにならう決断もつかず、冷え切った家庭の中で教師の夫と暮らしている、という意味です。

うない髪
うない髪

 このような危機的な家庭生活の中で子供だけが生きがいだったのでしょうか、次の優しい俳句も残しています。
  東風(こち)吹くや
      耳現るゝ
          うなゐ髪  杉田久女
髫(うなゐ)は万葉集にも出てくる言葉で、結い上げずにうなじあたりまで垂らした子供の髪形のことのようです。
久女には、秋桜子の影響か万葉調の俳句がかなりありますが、これもその系統の句と見ることもできます。

春になって厳しさの薄れた風が子供の長い髪の毛を揺らしている様子を、実に優しいタッチで詠んでいます。

うなゐ髪というのは、上記のように万葉集にも出てくる言葉なので、私は現代ではまったく使われなくなっていると思っていました。
ところが最近、インターネットのホームページなどでこの言葉を見かけるようになりました。どうやら若い女性の髪型で、頭のてっぺんでゴムで結い上げるショートヘアのカジュアルスタイ ルを「うない髪」と呼んでいるようです。
久女のうなゐ髪の名句も、現代のギャルの髪にあてはまることになるでしょうか(^_^)。

曼珠沙華
サタン離れぬ

 夫との不和、句作と家庭生活の両立などに悩んでいた久女は、人に勧められて大正11年にキリスト教の洗礼を受けました。私も後に知ったのですが、この際夫宇内も同時にキリスト教に入信したそうです。
この時代の俳人には、山口誓子、中村草田男などキリスト教の影響を強く受けた人がかなりいたようです。

久女は、その後は一時ほとんど俳句を作らなくなったとのことです。

しかし、天来の俳人である久女が俳句を忘れられるはずはなく、昭和になってから再び活発に句作をしてホトトギスに投句を行うようになりました。
   われにつきゐし
     サタン離れぬ
       曼珠沙華     杉田久女
如何に苦しくとも私には俳句しかないのだと自らに言い聞かせ、同時に周囲にも句作再開を宣言した句と思われます。

その後の10年余りが久女の俳人としての絶頂期で、自らの俳誌「花衣」を創刊し、またホトトギスの同人にも迎えられました。帝国院風景賞特選に選ばれて賞賛を浴びた次の俳句も、このころの作です。
   谺して
       山ほととぎす
           ほしいまま  杉田久女

ホトトギス同人を除名される

 しかしこの絶頂期は長くは続かず、昭和11年には久女は突如虚子によってホトトギスの同人から除名されてしまいます。除名の原因についてはいくつか説がありますが、決定的なものはなく現在に至るまで謎となっています。
いずれにせよ、久女にとって心からなる敬愛の対象であった虚子のこの行為は、精神的にも、また句作の上でも深甚なる打撃であり、以降久女の俳人としての活動は急速にしぼんで行きます。

終戦近くからは精神を病んで、大宰府の精神病院に収容されました。終戦前後の混乱した精神病院の経営の中で、極度の栄養失調と暖房がないなどの劣悪な環境のため衰弱してゆき、57歳の生涯を閉じました。

田辺聖子さんの労作

 このように華麗にして悲惨な久女の生涯は、後世の作家の創作欲を刺激し、何人もの作家が久女を題材として小説を書きました。
まず松本清張の 『菊枕』 がありますが、この作品は意図的かどうか不明ですが事実確認に大きな誤りがあり、後に久女の遺族から名誉毀損で訴えられることになりました。清張は死ぬ間際になって自らの誤りを認め、久女の遺族に謝罪したそうです。

最近では田辺聖子さんが 『花衣ぬぐやまつわる・・・』 というドキュメンタリ小説を書いています。田辺聖子さんは、5年をかけてあらゆる分野を精力的に調査し、清張や吉屋信子など先人によって形成された偏った久女像を丹念に造り直しています。

今回私もこの本を読み直して見ましたが、改めて大変な労作であるのがわかり、頭が下がりました。これも、田辺聖子さんが、私どもと同じく、久女俳句の際立った彫りの深さ、におうような叙情性に惹かれたからではないでしょうか。



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