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俳句エッセイ |
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奥の細道に出立してまもなく、芭蕉は現在の栃木県黒羽町にいた弟子のもとで長逗留をして、旅の疲れをいやしました。季節は、田植えも終わりかかる初夏のころでした。
私も、そのシーズンに黒羽町を2度訪れたことがありますが、那珂川の清流を見下ろす山郷の新緑は忘れられません。 芭蕉もこの地の美しさに感銘をうけ、多くの瑞々しい名句をここで詠んでいます。 |
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それらの中でも、次の有名な俳句の力強さは圧倒的です。
山も庭も
動き入るるや
夏座敷 松尾芭蕉
黒羽町の山際にある旧家などでは、夏になると戸や障子を取り払い、庭からの風を座敷に取り入れます。 その夏座敷に座り、夏木の茂る広い庭、その向こうの山際をながめると、この俳句の力を実感させられます。 |
この俳句のようなダイナミックな力の表現は、俳句史上芭蕉を措いて他にはあまり見られません。このような句調にチャレンジした俳人は沢山いたと思われますが、成功した例はあまり聞いたことがありません。
さて、奥の細道の中には、もう一句、ダイナミックな表現で有名な俳句があります。
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奥の細道の旅も終わりに近くなったころ、北陸金沢に入った芭蕉は、かねてより名声を聞いて文通をしていた一笑という俳人と会おうとしました。
しかし、一笑はその前の年の冬に死んでしまったということを知り、芭蕉は大変悲しみました。
一笑の兄が催した法事の席で、芭蕉は次の俳句を詠みました。
塚も動け
我が泣く声は
秋の風 松尾芭蕉
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一度も会ったことのない俳人への追悼句としては、なんという激しい悲しみようでしょうか。昔からこの俳句に対する評価はかなり分かれるようです。もちろん優れた俳句ではありますが、上の夏座敷の俳句と比べると、ダイナミックな表現がやや空回りしていると感ずるのは私だけではないと思います。 |
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一茶は、晩年故郷新潟に帰りましたが、そこで相続争いに巻き込まれ、大変な苦労をします。それがなんとか収まって、遅まきながら結婚し、ようやく安定した家庭生活を送るようになりました。その後56歳になって長女さとが生まれます。
惨憺たる人生を送ってきた一茶が、やっと天から恵まれた女児を溺愛したのは、想像するに難くありません。
しかし、ここでも不運は一茶に付きまといます。さと女が満1歳と1ヵ月になったばかりのころ、突然に痘瘡 (天然痘) にかかり、高熱を発しました。 |
現代のような治療法のない江戸時代のこと、さと女はまもなくはかなくもこの世を去ってしまいました。さと女への挽歌ともいえる句文集 「おらが春」 の中で、一茶はさと女の死を「此世をしぼみぬ」と表現しています。
露の世は
露の世ながら
さりながら 小林一茶
さと女の死のショックは大きく、一茶はあまりの悲しさにただただ呆然としていたようです。この俳句は、その様子を伝えて余すところがありません。 |
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句文集「おらが春」 の中には、「さと女三十五日の墓」と前書きがついた有名な俳句があります。
秋風や
むしりたがりし
赤い花 小林一茶
さと女がむしりたがった赤い花は、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)でしょうか、あるいはのうぜんかつらでしょうか。幸薄き女児のイメージが、花の色から私どもに伝わってきます。
一茶は生涯に2万句を詠んだといわれますが、それらの中でも指折りの秀句です。 |
ある俳人は、この俳句を「抑えた表現」と評していますが、まさに的確な評です。溺愛した女児を喪って35日の悲しさは身も心もひしがれるほどでしょうが、それを表面には出さず、淡々と赤い花に託して詠んでいます。その抑えた表現から、親の無限の悲しみが読者に伝わってきます。
墓前の悲しみを詠む俳句でも、前記芭蕉の「塚も動け」の句に見られるややオーバーな表現と、この一茶の静かな俳句とでは、なんと大きな違いがあることでしょう。俳句の表現の多様性にうたれるほかありません。
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